真贋を判断する基準やモノにはいろいろあるが、 とりあえず古書画を鑑定するのに参考となるものを 検証していこうと思う。 まず箱書からみてみよう。 書画の中で掛け物(掛軸)になっているものには 大抵それを収納する「箱」がある。 日本の場合、概ね木箱であるが、 素材は桐をはじめ杉、松、桑、もみ、紫檀と様々である。 箱に入れるという事がいつから始まったかは知らないが、 室町末頃の箱が現存する限り、それ以上昔からあることになる。 箱書には箱蓋の表に題名、裏に書いた人間の署名を書くのが 通例だが、全て表に書くこともあり例外もある。 共箱と呼ばれる書画の作者が直接自署したものは 19世紀初頭には存在しており、 以降共箱が通例となった。 それ以前は持ち主や某かが書いたことになる。 新画と呼ばれる近代絵画は それらが共箱であることが必須条件であることになっている。 仮に共箱でなければ その価格は随分廉価となってしまう。 それで所定の鑑定機関等を通して 「鑑定書」を発行し、 そのものが「真蹟」であることを証明、市場価値を維持している。 ここまでは問題ない。 が、オークション、交換会の類の中に「新画」専門の会がある。 ここでは出品される品物は成行きでない限り すべて保証の事 となっている。 さらに 共箱であるのにもかかわらず、加えて鑑定書が付いていなければ 値段が通らない、 ということがある。 これは一体どういうことだろうか。 この業界に居り、売買をしているプロの仲間同士が 遠目で見ても安心して買い落とせるような、即ち、 素人でも売買出来る甘さ、 共箱でも中身の判断ができないので、 鑑定書が付いていなければ自信の持てない緩さ、 これを私は同業として恥ずかしく思う。 もし、これらが古画や古い墨跡であったなら どうするのか。 古いものを保証する権威がどこにあるのか。 古いものに正式に通用するする鑑定書が付くだろうか。 明治以降、見識者や箱書をしてもらえる芸術家がいた。 彼らは勿論選美眼をお持ちだったろうし、研究もなされていただろう。 しかし、目利きが確かでなく 専門分野はともかく 範疇外まで目利きし、鑑定書きや箱書をしたものは 意外に多い。 中には箱書を頼まれて、断る事が全く無い人もいた。 まあ、お金を積まれたということもあるだろうが それより中身を賞賛し、喜んで書いた、というのが 自然であろう。 そこには悪意は無く、 その芸術作品に対する純然たる思いからである。 それでも有名人に箱書してもらえると ものの価値が上がったようで、 間違いないものであると信ずるようになる。 それらが流通すると 「〇〇の箱書」とか「〇〇の鑑定」となり だから間違いなく、いいものだ、となる。 これはいささか危ない状況なのである。 確かに見識が高く、この人なら大丈夫、といった 人の箱書や鑑定はある。 だが、どんな箱書でも信用していいとは限らないのだ。 偉大な書家、偉大な画家、偉大な先生だからといって 箱書や鑑定が確かだとは言い難いからである。 例に挙げることはあえて憚るが、 ある人の箱書にはほとんど真蹟のものが無い、 ということもある。 逆にパーフェクトな鑑定人も今では少ないと思われる。 昔の表具屋さんの中には どんなにお金を出すと言っても 「これにはウチは表具できない」といった 見識と哲学を持った方がいた。 目利きだったのである。 その表具屋さんの箱は定まったものであり、 真贋判定の基準となる。 また、箱にも目打ちや木目から 中身を見ずとも判断できることもある。 こんなこともある。 現実に本人が描いた画であるのに 晩年本人に箱書をお願いしたところ 「これは私の作品ではない」と 箱書を断られた、ということがある。 また、鑑定依頼において 定まった鑑定機関であるのに 間違いない真蹟のものに鑑定書が付かない、 依頼してきた業者との付き合いから 甘めに判断し、鑑定書を発行した、 といったケースもある。 これは集められた鑑定責任者達の愚かさから こうなる。 いずれにせよ、 この現代で新たな正しい見解や研究が進む中で、 これからの人達各々が見識を養い、いや 最低でも美術商である限り自ずから 目利きができるよう、努力してゆかねばならないのである。 それが最も課せられた使命なのだ。 但し、これは諸刃の刃でもあるが。 PR
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