今回は 「筆」と「墨」の事を 述べる。 書画を書く(描く)のに 「筆」と「墨」は欠かせない。 「弘法筆を選ばず」というが、 意外に芸術家達は 筆などの文房類を吟味し、 好みの道具で創作している。 ある人は藁筆に執着し、 ある人は唐渡りの筆しか使用しなかったり、 特定の地位にあればあるほど 選別された道具を使用している。 穂先の長い細めの筆を好んで使用した 作家の作品が 筆跡をみると、 どうもバサけていたり、墨継ぎがやたら早かったりすると どうもおかしい、ということになる。 「墨」も然りで 油煙墨・松煙墨・・・色々あるが、 作家が使用した墨には その執着の跡が見える。 上つ人(かみつびと)であれば 油煙の光沢のあるいい墨を 使用していることが多い。 例えば 天皇家は勿論のこと 宮家、殊に有栖川宮家など。 絵具もまた同様だ。 柳里恭(柳沢淇園)はその典型といえる。 このようなことからも 当時相当な地位にあった作家の作品が 低級な墨や絵具で書(描)かれていれば 真蹟としていかがであろうか、 ということになる。 筆法もまた参考になる。 「〇〇流」「〇〇様」といわれる書の流派は 古来より様々なものがある。 日本には上代様から青蓮院流、御家流と 幹ともいえる流れがある中で、 各時代にしか無かった書流がある。 なおかつ、枝分れした流派があり、 その弟子や子らに受継がれ 庶流として風靡している。 ただ、書流の歴史のみ理解しても 筆跡が解ったことにはならない。 一般に俗に言われる 「筆の線が強い」とか「弱い」というだけでは その作家の筆跡を理解していることにはならない。 各々作家の性格や生い立ち、誰に師事したか、 そしてどのような人生を送り、どのように教えを広めたか、 という事を踏まえなければならない。 「烏丸光廣」という江戸前期の公卿がいる。 彼は公卿の中でも異端的な存在で ある意味苦境を味わった人生でもあった。 彼の書は独特のもので 一般的にそれこそ強弱のある強い線の イメージがある。 が、その時その時で 書風が変化する事をご存知の方は 意外と少ない。 尊円流の書は勿論、 時には定家様の書で書いてみたり、 光悦や松花堂と見紛う程の書もある。 つまり、臨書は無論 手首が柔らかく、筆法など自由自在であったのだ。 気分によって、その折の気持ちの具合でも 自由に書き得たのである。 直筆だけでなく、 側筆も使って美しい線を醸し出した。 あまりに筆法の範囲が広いということが事実だ。 が故に 贋物も多く、見分けが付き難いものも多い。 単に線が弱い、といった 短絡的な見方では「光廣」は判断出来ない。 「寛永の三筆」というが 「光廣」を入れて「四筆」ともいうこともある。 厳密な話をすると 「信尹」は時代的にむしろ「信尋」が妥当である。 何故か。 三藐院流の創始はあくまで「信尹」であるからだ。 そう考えると では「光廣流」なる定まった筆法があるだろうか? 無いのだ。 彼は自由すぎてあらゆる筆法を書けた。 だから三筆は三筆でよいのだと 私は考える。 書を理解することは 大変なことだといつも 痛感する。 それでも 興味は尽きず、 明日もまた 一品一品を吟味してゆくのである。 PR
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